教育委員会
教育委員会について
教育委員会は、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」の定めにより設置される合議制の執行機関です。教育の政治的中立性を保持し、学校教育や社会教育、生涯学習、文化、スポーツ等の幅広い施策の振興を図ります。
また、教育行政における重要事項や基本方針を決定し、それに基づいて、教育長が具体の事務を執行します。会議は、月1回の定例会のほか、臨時会が開催されます。
■教育長及び教育委員について
教育長及び教育委員は、町長が議会の同意を得て任命します。任期は教育長は3年、教育委員は4年で、再任も可能です。なお、教育長が職務を行うことができない場合や、教育長が欠けた場合には、あらかじめ教育長が指名する委員が、職務代理者として教育長の職務を行います。
■教育委員会会議(定例・臨時)について
教育委員会会議の開催状況
※会議は原則として公開しています。ただし、案件によっては会議の一部または全部が非公開になることがありますので、ご承知おきください。
令和7年度(2025年度)議案
令和6年度(2024年度)議案
令和5年度(2023年度)議案
■総合教育会議について
総合教育会議は、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」の改正により、町長と教育委員会で構成され、教育、学術及び文化の振興などに関する総合的な施策など、教育行政の指針となる大綱を策定する会議体です。
南幌町の教育について
南幌町教育委員会事務事業点検評価報告について
南幌町教育委員会では、効果的な教育行政の推進に資するとともに、町民への説明責任を果たしていくために、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」第27条の規定に基づいて、教育委員会事務事業の点検及び評価を行い、その結果に関する報告書をまとめましたので公表します。
南幌町生涯学習推進基本構想
町民一人ひとりが生涯にわたり「いつでも」「どこでも」学ぶことができ、その学んだ成果が行かされる地域社会を目指すため「南幌町生涯学習推進基本構想」を策定しました。
構想の趣旨
南幌町では、平成28年2月に町長を本部長とする南幌町生涯学習推進本部を設置しました。これにより行政内の生涯学習における情報共有や連携・協力をより一層推進し、南幌らしい生涯学習の推進に向けて基本となるものです。
構想の性格
町の課題や社会情勢の変化などへ対応した、今後の生涯学習の指針となるものであり、これに基づき関連施策を総合的・計画的・体系的に進めていくためのものです。
構想の位置づけ
この構想は「第6期南幌町総合計画」の施策項目に位置付けられます。
また、「南幌町教育大綱」の主要施策、「第3期南幌町社会教育中期推進計画」の推進項目や町の個別計画などと連動する構想としています。
なお、構想の期間は、概ね10年とし必要に応じて見直しを行います。
第4期南幌町社会教育中期推進計画
町民一人ひとりが自主的・主体的に地域社会の構築に積極的に関わるとともに、生涯にわたる様々な学習や文化・スポーツ活動の実現に向けた本町の社会教育の進むべき方向性を定め、第6期南幌町総合計画における基本政策を踏まえた各種施策を推進するため、対象期間を令和4年度から令和8年度までの5か年とした、「第4期南幌町社会教育中期推進計画」を策定しました。
基本理念
「一人ひとりの『やってみたい・知りたい・学びたい』をつなげよう みんなで楽しくつくる なんぽろの社会教育」
計画策定の趣旨
今後、全国的に社会問題となっている人口減少や少子化、新型コロナウイルス感染症対策として「新しい生活様式」を取り入れたライフスタイルの変容、SDGsの教育の取組など、個人の価値観の多様性と急速に進展する情報化社会により、社会教育の進め方も大きく変わることが予想されます。また、生活をより豊かにし、幸福感を得るためには、一人ひとりの学びの場を充実させるとともに、少人数であっても居心地のいい学びの場と人と人との結びつきが強い仲間が必要であると考えます。音楽やスポーツ、趣味、ボランティアなどの小集団での学び合いが、少しずつ仲間を増やし、その仲間の輪に気軽に参加できる環境をつくり出すことのできる社会教育推進の基本として策定しました。
計画の詳細内容は以下のファイルからご確認いただけます。
第2期南幌町子どもの読書活動推進計画
本計画は、国における「子どもの読書活動の推進に関する基本的な計画」と北海道における「北海道子どもの読書活動推進計画」を基本として、南幌の子どもたちの豊かな読書活動を強く願い、本町の読書環境の整備を推進するため、令和4年度から令和8年度までの5か年を対象とした、「第2期南幌町子どもの読書活動推進計画」を策定しました。
基本方針
1.家庭・地域・学校における子どもの読書活動の推進
2.子どもの読書活動を推進するための読書環境の整備
3.子どもの読書活動に対する啓発活動
計画の詳細内容は以下のファイルからご確認いただけます。
南幌町史跡標柱(しせきひょうちゅう)
史跡標柱の設置
教育委員会では、昭和47年から昭和48年にかけて郷土の開拓資料に関して全町的に調査・収集を行い、その後、多くの町民の方々や夕張鉄道(株)当からの当時の貴重な資料の寄贈があり、これらの収蔵・展示及び活用等を進めて参りました。
昭和58年には、これら寄贈された資料等も含め「町郷土開拓資料(史跡含)」の収集・保存のあり方」に関して、社会教育関係委員に諮問し、昭和59年「町史史跡指定の必要性並びに標示方法等について」の答申がなされ、本町の開拓歴史をしるすものとして昭和61年より町文化財保護委員をはじめ関係委員団体等の検討を踏まえながら、町内36ヵ所に標柱を設置し、現在に至ります。
「なんぽろしせきめぐり」冊子

町内36ヵ所に設置している史跡・標柱を多くの方に巡ってもらうことと小中学校の授業等の資料としてご活用いただくことを目的に、別紙冊子を発刊しました。この冊子には、史跡の概要を掲載していますが、内容は標柱と一緒に設置している説明板の内容を簡略化したものとなっています。
【設置施設】生涯学習センターぽろろ、役場、あいくる、ビューロー、夕張太ふれあい館
スポーツセンター、改善センター
史跡めぐりMAP

南幌町の史跡について
NO.1 幌向村戸長役場跡 (ほろむいむらこちょうやくばあと) Ruins of Horomui Village Headman’s Office

1895年11月19日の村界の変更が確定した、11月22日に幌向村戸長役場が設置され、石川小膳宅(南15線西8番地)に仮事務所を置いていたが、同年12月末にこの場所に完成し直ちに仮事務所から移転した。

NO.2 幌向村公会堂跡(ほろむいむらこうかいどうあと)Ruins of Horomui Village Public Hall

1911年秋に幌向村役場隣りに農会事務所を新築した。1913年2月に火災により焼失し、同年4月に事務所と住宅を併せて再建した。この事務所は村議会議場にも利用され、後の公会堂として村民に利用された。当時の写真は、公会堂前での記念撮影。

NO.3 幌向駅逓所跡(ほろむいえきていしょあと)Horomui Post Station Remains

旅客の宿泊官馬を使って貨物の運送等に利便をもたらすねらいで、1912年4月松田与三氏によってこの場所に開所し、交通不便な地帯の文化の発展に大きく貢献した。1930年夕張鉄道の開通に伴い、翌年11月で廃止となった。

NO.4 幌向郵便局跡(ほろむいゆうびんきょくあと)Ruins of Horomui Post Office

1895年1月、南13線西8番地(現菩提寺の西隣)に居を構えた板垣贇夫の住宅8畳間1室を仮事務所とし幌向郵便局が設置された。1897年には初代局長に板垣贇夫が就任し、1895年1月16日より郵便物集配業務が開始された。

NO.5 幌向運河第3閘門跡(ほろむいうんがだい3こうもんあと)Horomui Canal Third Lock Gate Remains

この運河は、夕張川の取水口と江別川の落口との落差を利用して閘門方式を取り入れた運河を開削し、1896年(明治29年)に完成させ、船運による生活物資の搬入と農産物の搬出に利用された。

NO.6 競馬場跡(けいばじょうあと)Ruins of Racecourse

1897年頃より部落の草競馬が行われ、1902年頃には各部落が連合して競馬会が開催された。これによって、馬産奨励のためこの場所に競馬場を作り、農耕馬の競馬が行われていた。

NO.7 大正園(たいしょうえん)Taishoen

1913年、この場所に昔の在郷軍人会の手によって天然古川を利用した池(築山)グランドなども作って公園とした。1915年当時南幌小学校校庭の忠魂碑を公園内に移し、現在の石碑を建てたが、1947年グランドを残し廃止した。

NO.8 幌向村立南幌尋常高等小学校跡(ほろむいそんりつみなみほろじんじょうしょうがっこうあと)Horomui Village Rikki Nanporo Jinjo Elementary School Ruins

開町以来、1905年まで本町の小学校は、尋常小学校だけであったため、早くから町民の間で高等科設置が強く要望されており、この場所に認可申請を行い、1906年4月1日から南幌尋常高等小学校が認可となり、初代校長には、田口音吉が赴任した。

NO.9 新夕張川切り換え地点(しんゆうばりがわきりかえちてん)Shinyubari River switching point

1909年北海道の治水計画に基づいて、1922年に夕張川新水路の開削がはじまった。夕張川新水路の全面開通は1936年8月17日で、この日、旧夕張川との接点(南16線西0号付近)は多くの町民が集い、歓声の中、旧河道が閉鎖され新川への土留めが撤去された。

NO.10 五十鈴神社参道入り口跡(いすずじんじゃさんどういりぐちあと)Ruins of the entrance to the approach to Isuzu Shrine

1896年9月この地に祠を建て、翌年9月17日、団体長板垣贇夫が所有地二反三畝を寄付して三重県宇治山田市鎮座伊勢神宮より天照大神の分霊を受け、無願五十鈴神社を創建し、毎年9月15日を例祭日と定めた。五十鈴神社は、三重団体の守護神として奉祠した。

NO.11 幌向村立育生尋常小学校跡(ほろむいそんりついくせいじんじょうしょうがっこうあと)Ruins of Horomui Village Ikusei Elementary School

1899年2月11日、この場所に開校した。校舎は木造柾葺平屋を建築し、1899年2月10日に中井五十若が初代校長に任命され、尋常科4ヵ年制、2学級編成として発足したが、翌年、南12線西4番地に移転した。

NO.12 幌向村立青葉尋常小学校跡(ほろむいそんりつあおばじんじょうしょうがっこうあと)Ruins of Horomui Village Aoba Elementary School

松井倉蔵より500坪敷地の寄付を受け、草葺平屋校舎を建築し、1899年2月8日、修業年限4ヶ年の尋常小学校として開校した。1933年3月、青葉校は育生校と合併して東幌小学校が設置されたので、37年の歴史を残して1935年4月30日をもって閉校した。

NO.13 石川邦光屋敷跡(いしかわくにみつやしきあと)Ruins of Kunimitsu Ishikawa’s residence

石川邦光は1870年蝦夷地開拓を志すため、移民団を組織し室蘭に入植したが、開拓は困難を極め一旦帰郷。1893年5月移民団と共に夕張川の右岸の地に入植し石川部落を開いた。石川邦光はこの地に居宅を造り開拓の指揮所とした。当時の写真は石川邦光公との記念写真。

NO.14 丸金渡船場跡(まるきんとせんばあと)Ruins of Marukin ferry terminal

1893年に石川団体が夕張川沿岸(西4号)の地に入植し、石川部落の拠点となった。夕張川対岸も開拓が進められ幌向と長沼の往来も始まり、渡船の必要が生じたため、長沼側に住む金脇三吉(丸金)が私設渡船場を開始。人の交通よりも生活物資の運搬が主であった。

NO.15 八幡神社跡(はちまんじんじゃあと)Ruins of Hachiman Shrine

1894年、団体長である石川邦光が、郷里宮城県伊具郡角田村に鎮座する八幡大神の分霊を奉遷し、移住地区のこの場所に祠を建てて祠り、毎年9月19日を例祭とした。

NO.16 大野神社跡(おおのじんじゃあと)Ohno shrine Remains

福井県出身者が多く入植した大野開墾地においては、1897年(明治30年)4月多田宇一がこの地に八幡大神を祠り、八幡神社と称し、毎年8月15日を例大祭とした。

NO.17 幌向村立鶴城尋常小学校跡(ほろむいそんりつかくじょうじんじょうしょうがっこうあと)Ruins of Horomui Village Kakujo Elementary School

福井県出身の開拓者である広田甚太郎は、自己の所有地600坪を小学校敷地として寄付。小学校建設に奔走し、1899年2月15日に尋常小学校として開校し、1970年3月31日をもって南幌小学校に統合され廃校となった。当時の写真は昭和10年代の鶴城尋常小学校時代。

NO.18 藤田渡船場跡(ふじたとせんばあと)Ruins of Fujita Ferry Terminal

江別・長沼を結ぶ本町の西12号道路は1895年開通された。この12号道路は1926年4月7日、準地方費道路に認定されたので藤田渡船場の施設は、公費によって管理されることとなり、長沼村長が責任者となったが、1936年夕張川切り替え工事完成に伴い、自然廃止となった。

NO.19 幌向村立晩翠尋常小学校跡(ほろむいそんりつばんすいじんじょうしょうがっこうあと)Ruins of Horomui Village Bansui Elementary School

地域住民の間で小学校設置の要望が高まり、鈴木平作、越智国助などが中心となり、学校創設の申請を行い、地域住民の寄付で、資材や労力は住民の協力によって、1899年3月1日に開校した。以来、1935年に南12線西15番地に校舎を新築移転するまで使われていた。

NO.20 白鳥沼跡(しらとりぬまあと)Ruins of Shiratori Swamp

水深の浅い周囲20丁余り、本町開拓の初期までは魚類や多くの水鳥が棲息していた。鳥類の中で特に白鳥が多く、その姿も優美であったので白鳥沼とした。1939年、この地に入植した高橋理一郎の手で干拓され、農耕地となった。

NO.21 白鳥神社跡(しらとりじんじゃあと)Ruins of Shiratori Shrine

翠地域においては、1895年6月15日垂水幸五郎・渡辺浜太郎等が発起人となり、この地に日本武尊を祭神とした白鳥神社を創建した。1896年には、祭神の像を造り安置し、1900年には熱田神宮より分霊を奉還し、合祀した。

NO.22 夕張太渡船場跡(ゆうばりぶととせんばあと)Ruins of Yubaributo ferry terminal

1890年、この地に入植した目黒市太郎が丸木舟を造り、便宜をはかっていたのが始まりで、1895年に施設渡船場として許可を受けて経営された。西21号道路より江別市志文別に通じる夕張太渡船場は、本町において最も早く開かれた渡船場である。

NO.23 山田武七入植地(やまだぶしちにゅうしょくち)Bushichi Yamada Settlement

1886年6月に新潟県出身の山田武七氏が、アイヌから江別川上流にユウハリフトと云う耕地に適している土地があると聞き、現地を視察。さらに翌年5月に家族と現在の場所に入地し、草小屋を建てて開墾を始めたと語り伝えられている。当時の写真は、夕張太開拓時。

NO.24 幌向村立夕張太尋常小学跡(ほろむいそんりつゆうばりぶとじんじょうしょうがっこうあと)Site of Horomui Village Yubaributo Elementary School

本校は1899年3月1日に開校し、当初は、男9名、女3名が学び、代用教員の上山七松が教育にあたった。本校は夕張太簡易教育所として発足したが、1908年3月に特別教育規定改正により、夕張太教育所と改め、1917年4月1日夕張太尋常小学校と校名を変更された。

NO.25 鶴沼跡(つるぬまあと)Ruins of Tsurunuma

鶴沼は、本町で唯一の大きな沼でアイヌはこの沼を趐湖(ラブシトウ)と呼び、安政年間には周囲約28キロもあった。この地には、集まる鳥類の中で最も美しい鶴が、この沼の名称に選ばれた。鶴沼には多くのカラス貝が生息していたため、真珠の養殖が試みられた。

NO.26 夕張太尋常小学校跡地(ゆうばりぶとじんじょうしょうがっこうあとち)Former site of Yubari Futari Elementary School

本校は1899年3月に開校され、1927年まで南13線西22番地にあったが、校舎の傷みがひどく、南17線西17号沿線に多数の入植者が住んでおり、通学に不便が多く、移転増改築の必要に迫られ、1927年この地に木造平屋校舎が新築された。当時の写真は夕張太小中学校。

NO.27 夕張鉄道南幌向駅跡(ゆうばりてつどうみなみほろむいえきあと)Yubari Railway Minami-Horomui Station Site

1929年7月28日、栗山駅より長沼・南幌を経て省線野幌駅に接続する23kmの工事が着工、翌年11月3日に開通式が行われた。町内の営業所としてこの地に南幌向駅が設けられ、旅客・貨物・手荷物等の業務を取り扱う営業を開始。1975年夕張鉄道廃止に伴い業務を終えた。

NO.28 夕張鉄道晩翠駅跡(ゆうばりてつどうばんすいえきあと)Yubari Railway Bansui Station Site

1930年11月5日の鉄道開通に伴い、町内に2つの営業所が設けられ、この地は晩翠駅として営業を開始した。晩翠駅は簡易駅で駅員が配置されず不便であったため、1947年8月より停車場に昇格し、駅員1名配置され乗車券の発売及び貨物の発着を取り扱うことになった。

NO.29 開拓初期の墓地跡(かいたくしょきのぼちあと)Ruins of a cemetery in the early pioneer days

開拓の初期から、1909年二級村制実施によって確立した幌向村(現南幌町)共同墓地設置までの16年間は、不幸にして病魔に倒れた人たち、生後間もなく息を引き取った幼子たちの遺体が、この地(南15線西6番地)に埋葬、荼毘に付されていた。

NO.30 小林渡し跡(こばやしわたしあと)Kobayashi Ferry Site

10号渡船場飛騨部落の発達とその対岸長沼村の発達に伴い、交通の面の不便さを考慮し、ここに10号渡船場が開かれた。1913年4月、長沼側に住む坂下弥次郎が私設渡船場を出願し経営したが、1915年4月より小林定吉が引き受けて、夕張川切替工事まで経営した。

NO.31 伊勢開墾跡(いせかいこんあと)Ise Cultivation Site

1893年三重県人板垣贇夫が岩見沢お茶の水から7戸の開拓民を転地させたのが伊勢開墾の始まりである。1894年50戸の三重移住団体は、江別川からバンゲソウカの流れを舟を引いて上がり、現在の南11線西7番地に到達した。この50戸と1895年の入植組30戸が開墾に着手。

NO.32 東幌小学校跡(ひがしほろしょうがっこうあと)Ruins of Higashihoro Elementary School

東幌小学校は、南14線西5番地の約7,448㎡の敷地に育生と青葉の両尋常小学校を合併して1935年5月1日新設された。初代校長には、岡本補佐夫が赴任し9年余り新設学校の経営に尽力された。1972年には学校統合により南幌小学校の分教場となり翌年3月に廃止となった。

NO.33 晩翠小学校跡(ばんすいしょうがっこうあと)Ruins of Bansui Elementary School

1935年に南11線西15番地にあった校舎は、校舎位置、建物の腐朽度等によりこの地に新校舎が建築され移転した。1959年9月17日には、開校60周年記念式が行われたが、1971年には学校統合により南幌小学校の分教場となり、1973年3月に廃止となった。

NO.34 夕張太神社跡(ゆうばりぶとじんじゃあと)Ruins of Yubaributo jinja Shrine

この地には、1891年頃に5、6戸の入植地があり、その地域の一角に八幡大神の標杭を建て、開拓の神として祠っていた。1894年に旧小学校校庭となったところに山田武七らが発起人となり小さな祠を建て、以来1955年まで守り神として祠っていた。

NO.35 本町基盤目状測量家 水野太平屋敷跡(ほんちょうきばんめじょうそくりょうか みずのたへいやしきあと)This town base surveyor Tahei Mizuno’s mansion ruins

石川邦光が1892年に本町の測量に入った翌年、家臣の水野太平に幌向村全域の地籍づくりと区割り測量を命じ、楔形鎖分銅の測量機を使い、アメリカ合衆国のタウンシップ制度に基づき、原生叢林、湿地の中での測量を完遂させた。1894年には完成したと伝えられている。

NO.36 木詰の地跡(きづまりのちあと)Ruins of Kidumari

町の治水工事発祥の地と言われた「木詰」とは、アイヌの人たちがラブシトウーと呼んでいた大きな沼地の一部である。数多い屈曲部に流木、泥砂などが停滞し、流木の数は百万本ともいわれていた。開拓者はこれを除去することが、治水の始まりとなった。

南幌町立学校教職員に係る時間外在校等時間(超過時間)について
南幌町教育委員会では、学校における働き方改革「南幌町アクション・プラン」において、教育職員の在校等時間から所定の勤務時間等を減じた時間(時間外在校等時間(超過時間))を1か月で45時間以内、1年間で360 時間以内とする目標を設定しています。
各町立学校にて導入した出退勤管理システムにより把握される教育職員の時間外在校等時間 (超過時間)を定期的に公表し、働き方改革に関する各般の取組状況を互いに確認することなどにより、 長時間勤務の縮減に向けた実効性を確保したいと考えています。
ハラスメント防止等に関する指針
南幌町教育委員会では、教職員のハラスメント防止、ハラスメントに起因する問題が生じた場合に適正に対応するため、「南幌町立学校における教職員のハラスメント防止に関する指針」を令和5年2月に策定しました。
いかなるハラスメントも許さない組織風土の醸成に向けて、校長や職員の責務を明確化し、ハラスメントの防止対策や相談対応の充実、強化を図るため、「北海道教育委員会のハラスメント防止等に関する基本指針」の改定に合わせて、令和5年7月に町指針の一部を改定しました。
南幌町教育施設長寿命化計画
本計画は、教育施設の中長期的な維持管理等に係るトータルコス卜の縮減及び予算の平準化を図りつつ、教育施設に求められる機能・性能を確保するため、施設毎の中長期的な方針を示すことを目的として策定します。
基本方針
・地域みんなで支える子育て・家庭教育の推進
・地域とともにある学校教育の推進
・豊かな心を育てる生涯学習・社会教育の推進
・健康な心身を育てるスポーツ・レクリエーション活動の推進
・ふるさとの記憶を伝える芸術・文化活動の推進
計画の詳細内容は以下のファイルからご確認いただけます。
公立学校情報機器整備事業に係る各種計画について
GIGA第2期における1人1台端末の更新に係る各種計画について、「GIGAスクール構想加速化基金管理運営要領」に基づき公表します。
南幌町教育情報セキュリティポリシー
小中学校における1人1台端末の整備や校務DX化が進む中で、学校が保有する情報資産をサイバー攻撃や情報漏洩などの脅威から保護するため、「南幌町教育情報セキュリティポリシー」を策定しました。