南幌町史蹟めぐりMAP4

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藤田渡船場跡

名称
藤田渡船場跡

読み方
ふじたとせんばあと

所在
南幌町南20線西12番地

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江別・長沼を結ぶ本町の西12号道路は明治28年(1895年)開通された。
この12号道路は大正15年(1926年)4月7日準地方費道路に認定されたので藤田渡船場の施設は、この道路の付属共用物となり公費によって管理されることとなり、長沼村長が責任者となった。
また、別名福山渡しとも呼ばれ、昭和11年(1936年)夕張川切り替え工事完成に伴い、自然廃止となった。

幌向村立鶴城尋常小学校跡

名称
幌向村立鶴城尋常小学校跡

読み方
ほろむいそんりつかくじょうじんじょうしょうがっこうあと

所在
南幌町南17線西12番地

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鶴城地域は、開拓当初飛騨・大野開拓地として開拓されたが、明治30年(1897年)には戸数百戸を越え、児童数も150戸に至ったので、部落民は教育施設を強く要望するようになった。
福井県出身の広田甚太郎は事故の所有地600坪を小学校敷地として寄付し、小学校建設に奔走した。
明治31年(1898年)12月8日に設置認可され、翌年(1899年)2月15日に尋常小学校1類3ヶ年制単級として開校発足したが、昭和8年(1933年)南幌校の分教場となり、昭和10年(1935年)6月13日をもって廃校となった。

小林渡し跡

名称
小林渡し跡

読み方
こばやしわたしあと

所在
南幌町南19線西10番地

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10号渡船場飛騨部落の発達とその対岸長沼村の発達に伴い、交通の交通の面の不便さを考慮し、従来藤田渡船場(南20線西12番地)を利用した人々も近くに渡船場を希望したことから、ここに10号渡船場が開かれたのである。
大正2年(1913年)4月、長沼側に住む坂下弥次郎が施設渡船場を出願し経営したが、大正4年(1915年)4月より小林定吉が引き受けて、夕張川切替工事まで経営した。

大野神社跡

名称
大野神社跡

読み方
おおのじんじゃあと

所在
南幌町南15線西11番地

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福井県出身者が多く入植した大野開墾地においては、明治30年(1897年)4月、宇多田がこの地に八幡大神を祠り、八幡神社と称し、毎年8月15日を例大祭とした。

夕張鉄道南幌向駅跡

名称
夕張鉄道南幌向駅跡

読み方
ゆうばりてつどうみなみほろむいえきあと

所在
南幌町中央2丁目4-1

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昭和4年(1929年)7月28日、栗山駅より長沼・南幌を経て省線野幌駅に接続する23kmの工事が着工。翌5年(1930年)11月3日に開通式が行われ、本線の開通は本町の産業の振興と文化の進展に大きく貢献した。
町内に営業所としてこの地に南幌向駅が設けられ、開通と同時に旅客・貨物・手荷物等の業務を取り扱い、営業を開始した。
南幌向駅は昭和5年(1930年)の建築であるため老朽化が進み、年間の乗降客及び貨物の取り扱い数は開業当初に比べて増加したため、昭和30年(1955年)7月駅舎を改築した。昭和50年(1975年)夕張鉄道廃止に伴い業務を終了した。

開拓初期の墓地跡

名称
開拓初期の墓地跡

読み方
かいたくしょきのぼちあと

所在
南幌町南15線西6番地

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開拓の初期から、明治42年(1909年)二級村制実施によって確立した幌向村(現南幌町)共同墓地設置までの16年間は、不幸にして病魔に倒れた人たち、生後間もなく息を引き取った幼子たちの遺体が、この地に埋葬、荼毘に付されていた。
どの位の人たちの霊魂が眠っているのかはわかっていない。遺族、身内は勿論、未開地に入植した開拓団員たちも、やがては自分の骨を埋める墓地として、敬虔な気持で長い間墓地周辺の草刈、清掃などを続けていた。

八幡神社跡

名称
八幡神社跡

読み方
はちまんじんじゃあと

所在
南幌町南16線西6番地

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明治27年(1894年)、団体長である石川邦光氏が、郷里宮城県伊具郡角田村に鎮座する八幡大神の分霊を奉遷し、移住地区のこの場所に祠を建てて祠り、毎年9月19日を例祭とした。

幌向村立青葉尋常小学校跡

名称
幌向村立青葉尋常小学校跡

読み方
ほろむいそんりつあおばじんじょうしょうがっこうあと

所在
南幌町南16線6番地

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石川団体入植間もなく、水野太平・高橋庄蔵両人が中心となって部落有志とはかり、子弟教育は早くから行われていたが、明治31年(1898年)に至り有志が発起人となって学校を開設することになり、松井倉蔵より500坪敷地の寄付を受け、3間×6間の草葺平屋校舎を建築した。
本校は、明治31年(1898年)12月8日に設置認可され、翌32年(1899年)2月8日、修業年限4ヶ年の尋常小学校として開校したが、昭和8年(1933年)3月、青葉校は育成校と合併して東幌小学校が設置されたので、37年の歴史を残して昭和10年(1935年)4月30日をもって閉校した。

丸金渡船場跡

名称
丸金渡船場跡

読み方
まるきんとせんばあと

所在
南幌町南17線西5番地

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明治27年(1894年)頃夕張川対岸の開拓が始まると同じに、幌向・長沼間の交渉も始まり、渡船の必要が生じ、長沼側に住む金脇三吉( 丸金 )によって私設渡船場を開始した。
渡船場においては、人の交通よりも生活物資運搬が主で、冬期間は柳の粗朶を敷いたり板を並べたりして氷橋を造って交通の便をはかった。昭和6年(1931年)に廃止となった。

東幌小学校跡

名称
東幌小学校跡

読み方
ひがしほろしょうがっこうあと

所在
南幌町南14線西5番地

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東幌小学校は、昭和8年(1933年)3月、小学校統合案に基づき、この地に75a(7反5畝10歩)の敷地で校舎を新設し、育成・青葉の両校を合併して児童を収容した。設置認可は昭和9年(1934年)8月3日で開校は翌10年(1935年)5月1日であった。
開校時の児童数は186名で、3学級編成として昭和18年(1943年)まで続いたが、この18年に待望の高等科1学級が併置され、翌年(1944年)に尋常科1学級が増え5学級として昭和21年(1946年)まで続いた。6・3制の改革により高等科が廃止となり、4学級となった。
昭和24年(1949年)以降は小学校6学級編成になったが、昭和47年(1972年)に南幌小学校統合により、翌48年(1973年)3月に閉校となった。

新夕張川切り替え地点

名称
新夕張川切り替え地点

読み方
しんゆうばりがわきりかえちてん

所在
南幌町南16線西0番地

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明治42年(1909年)道の治水計画に基づいて、大正9年(1920年)夕張川治水工事が着工となり、夕張川新水路の開削が始まったのは2年後の大正11年(1922年)から。
その延長は、当時は二里三十二町と呼ばれていた。約11.6kmである。夕張川新水路の全面開通は昭和11年(1936年)8月17日。この日、旧夕張川との接点は多くの町民の歓声の中、旧河道が閉鎖され新川への土留めが撤去され、長かった苦闘の数々を、一直線に石狩川へと流し込んだ。

本町基盤目状測量家水野太平屋敷跡

名称
本町基盤目状測量家水野太平屋敷跡

読み方
ほんちょうきばんめじょうそくりょうか みずのたへいやしきあと

所在
南幌町南17線西4番地

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明治25年(1892年)石川邦光が本町に測量に入り、翌年家臣の水野太平に幌向村(南幌町)全域の地籍づくりと区割り測量を命じた。命を受けた水野は、楔形、鎖分銅の測量機を使い、アメリカ合衆国のタウンシップ制度に基づいた明治政府の区割り制度に従って原生叢林、湿地の中で測量を完遂させた。
現在の基盤目状は、水野太平の測量によって成り立っており、正確は比類なきもので、高く評価されている。
明治27年(1894年)の夏には完成していたとされている。

石川邦光屋敷跡

名称
石川邦光屋敷跡

読み方
いしかわくにみつやしきあと

所在
南幌町南17線西3番地

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幕末に敗れた伊達支藩角田城主石川邦光は、明治2年(1869年)蝦夷地開拓を志し室蘭に入植したが、開拓の夢破れ帰郷し、明治25年(1892年)5月再度未開地開拓に挑むこととなり、移民団と共にこの地を選んだ。
団体長石川邦光は、故郷の旧館、臥牛城に似ていたこの地に居宅(4間半×8間半)を造り開拓の指揮所にもしたが、昭和5年(1930年)に家財・開拓文物一切を焼失した。