南幌町史蹟めぐりMAP1

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幌向村立晩翠尋常小学校跡

名称
幌向村立晩翠尋常小学校跡

読み方
ほろむいそんりつばんすいじんじょうしょうがっこうあと

所在
南幌町南11線西15番地

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明治30年(1897年)頃、部落民の間に小学校設置の要望が高まり、鈴木平作、越智国助等が中心となり、学校創設の申請を行い、この地に校舎を建築し、明治31年(1898年)暮までに完成した。
工費は部落民の寄付であり資材や労力は部落民の協力によった。
明治31年(1898年)12月8日設置認可となり、校名を晩翠と呼称し、翌年(1899年)3月1日に開校したが、昭和10年(1936年)には現南12線西15番地に校舎を新築移転した。

夕張鉄道晩翠駅跡

名称
夕張鉄道晩翠駅跡

読み方
ゆうばりてつどうばんすいえきあと

所在
南幌町南11線西14番地

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昭和4年(1929年)7月28日、栗山駅より長沼・南幌を経て省線野幌駅に接続する23kmの工事が着工され、翌5年(1930年)11月3日に開通式が行われ、この地に晩翠停留所として営業を開始した。晩翠停留所は、駅員が配置されず、南幌向駅長が駅務を管掌し、列車が停留するだけで、旅客のほかの一般業務は取り扱わず、乗車券は車内で発売していた。
このように不便であったので、関係住民の強い要請によって、昭和22年(1947年)8月14日より駅に昇格し、駅員は南幌向駅より1名配置され、乗車券の発売及び貨物の発着を取り扱うことになったが、昭和50年(1975年)夕張鉄道廃止に伴い業務を終了した。

夕張太渡船場跡

名称
夕張太渡船場跡

読み方
ゆうばりぶととせんばあと

所在
南幌町南12線西22番地

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明治23年(1890年)、この地に入植した目黒市太郎が丸木舟を造り、便宜をはかっていたが、明治28年(1895年)私設渡船場として許可を受け経営した。
西21号道路より江別市志文別に通じる夕張太渡船場は、本町において最も早く開かれた渡船場であった。

山田武七入植地

名称
山田武七入植地

読み方
やまだぶしちにゅうしょくち

所在
南幌町南13線西22番地

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明治19年(1885年)6月に新潟県出身の山田武七が、アイヌに江別川上流にユウハリフトと云う耕地に適している土地があると聞き、明治20年(1887年)に現地を視察し、明治21年(1888年)5月に家族共々現在の場所に入地し、草小屋を建てて開墾を始めた。

幌向村立夕張太尋常小学校跡

名称
幌向村立夕張太尋常小学校跡

読み方
ほろむいそんりつゆうばりぶとじんじょうしょうがっこうあと

所在
南幌町南13線西22番地

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本校は明治31年(1898年)12月8日設置認可となり、翌32年(1899年)2月11日夕張太尋常小学校と校名指令、同3月1日開校し、代用教員上山七松が教育に当たった。
本校は開校と同時に簡易教育規程により、夕張太簡易教育所として発足したが、明治41年(1908年)3月に特別教育規程が改正されたため、道庁訓令第22号により4月1日夕張太尋常小学校と校格変更されたのち、昭和2年(1927年)に南14線西20番地に移転した。

夕張太神社跡

名称
夕張太神社跡

読み方
ゆうばりぶとじんじゃあと

所在
南幌町南13線西22番地

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この地には、明治24・25年(1891・1892年)頃5~6戸の入植地があったが、部落の一角に八幡大神の標杭を建て、開拓の神として祠った。
その後、明治27年(1894年)旧小学校校庭になったところに山田武七らが発起人となり小祠を建て、昭和30年(1955年)まで部落の守り神として存在した。

白鳥沼跡

名称
白鳥沼跡

読み方
しらとりぬまあと

所在
南幌町南13線西17番地

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水深の浅い周囲20丁余り、本町開拓の初期までは魚類や多くの水鳥が棲息していた。
鳥類の中で特に白鳥が多く、その姿も優美であったので白鳥沼とした。
昭和14年(1939年)、この地に入植した高橋理一郎の手で干拓され、農耕地となった。

白鳥神社跡

名称
白鳥神社跡

読み方
しらとりじんじゃあと

所在
南幌町南13線西17番地

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晩翠地域においては、明治28年(1895年)6月15日垂水幸五郎、渡辺浜太郎らが発起人となり、この地に日本武尊を祭神とした白鳥神社を創建した。
翌29年(1896年)には、祭神の像を造り安置し、33年(1900年)には熱田神宮より分霊を奉還し、合祀した。

晩翠小学校跡

名称
晩翠小学校跡

読み方
ばんすいしょうがっこうあと

所在
南幌町南12線15番地

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昭和10年(1935年)に南11線西15番地にあった校舎は、校舎位置建物の腐朽度等により部落民の移転の気運が高まり、この地に新校舎が建築され移転した。
新校舎完成まで瀬川喜次郎所有の納屋と深広寺の本堂を借り受け仮教室として授業を行った。
昭和24年(1949年)に入り待望の屋内体育館が建築され、昭和34年(1959年)9月17日には、開校60周年記念式が行われたが、昭和46年(1971年)南幌小学校統合により、翌47年(1972年)3月には閉校となった。